こんにちは(^ ^)
おKさんどす〜♬
今日は生い立ちシリーズの続きです。
今回もサクサク行きますねw
前回は空手を中心に書いたので、今回は20〜29歳までをサラサラ〜っと書いてみます。
生い立ちシリーズ
生立ち① 幼少期〜少年期
シリーズ前回
青年期① 空手
現場仕事をしながら空手を続けていました。
が、日々のトレーニングに加えて仕事はキツイし景気が悪くて給料も増えない。。
空手を生業にするなら!
いっそ辞めちまおう!!
ってことで、
スポーツジムでトレーナーのアルバイトを始める。
その頃、また「YTの様子がおかしい」と聞いていたが、、関わると面倒だと思って放っておきました。
程なくして、YTは高速道路でトラックに突っ込まれて帰らぬ人になりました。
東京に住む同級生に電話して、東京に向かう途中でした。
きっと寂しくて、悲しかったんだと思います。
そんな想いをさせてしまったこと、ちゃんと向き合ってあげられなかったことを、、
今でも後悔しています。。
YTよ、、お前の分までキッチリ生きるぞ!
会いに行くから地獄で待っとれよ!!
空手をやりながらジムトレーナーってのは、ある面ではかなり良かったが、悪い面もあった。
良い面は、
トレーニングメインの生活で、当時は今よりも10kg位重くて75kgくらい。
体脂肪率も5%以内でした。
(空手は脂肪があった方が良いと言われているが、私は脂肪が付きにくい。)
バリバリのアスリートっぷりw
ムエタイの選手みたいになってたww
悪い面は、
所詮はアルバイトなのでお金が無い、、
その頃は実家に戻って母親に甘えていた。。
母ちゃんありがとう(´;ω;`)
流石にマズイと思い、
前職の親方に頼んで働かせて貰った。
そこで免許を取る。
22か23歳の時?に車の免許を取得。
(それまでは無免許運転。ごめんなさい。)
青春時代②で書いた単車事故の後、原付免許を取り消しになったので2年は免許が取れなかった。
あちこち行く現場仕事だったので教習所に通うタイミングも難しく、自宅から近い現場になった時に頑張って教習所に通った。
そして安いボロい車を買って、また仕事を辞めることにした。
知り合いが(地元では有名な)市場みたいな激安スーパーマーケットTで働いていたのだけど、給料を聞いてビックリ!
とりあえずバイトさせて貰うことにした。
雇って貰ったのは良いけど肉屋に配属。。。
不満だったけど後から考えると良かったと思う。
他の部署は理不尽な先輩が多かった。
バイトでも30万位はあったから生活は何とか持ち直すことができた。
今は知らないけど、この会社は当時12時間労働が当たり前、パワハラ&セクハラ当たり前の
完全ブラック企業だったw
(この頃に「仕事が忙しい」を言い訳に空手から遠ざかる)
異端児扱いされたが能力は買われて正規雇用され、5店舗ある内の1つで肉屋の責任者を任された。
(専務に気に入られたってのもあるかも知れない。)
酒に溺れ始めたのはこの頃から、、
当時は近所にスーパーマーケットTの社長と専務が共同経営するJazz BARがあって、連日JazzバンドがLiveをやっていた。
音楽好きの私はよく通いました。
Liveが無い日は超ヒマな店(Liveがあってもヒマ)で、店長と喋りながら深酒したのが懐かしい。
時々手伝ったりもしていた。
二日酔いで朝6時から働いていたw
あの店、、今はどーなったかなぁ、、
先輩や同僚に連れられてキャバクラで遊ぶようになったのもこの頃からw
(初めてキャバクラに行ったのは、19歳の時に現場仕事の先輩に連れられて)
責任者に抜擢された私はすぐに結果を出しました。
前年対比で売り上げと利益率を更新。
ボーナスもビックリな額でしたよ!!
サラリーマン人生。。
「まぁこんな人生もアリなのかな、、」なんて一時は思いましたが、、
何か違う、、、
と感じていた私は辞めてしまいました。
今思えば、、数字に追われ続ける仕事が怖かったのかもしれません。
バイトの時から先輩が受ける理不尽なパワハラや数字に追われて陰口を叩かれる様を見ていて怖かったのでしょう。
サラリーマンの皆さん本当にご苦労様です!!
その後、
独立した元同僚のO先輩の元で働くことに。
型枠大工に戻る。
従業員は1つ歳上の先輩が1人いた。(性格悪しw)
働き始めてすぐにこの先輩にブチ切れたら辞めてしまったw
職場に経験者の友人を誘ったらその後輩も続々と入ってきた。
仕事中に後輩の1人を引きずり回してしまい、O先輩と微妙な感じになったので辞める。
スーパーマーケットTを辞める頃にエレキギターを習いに行き始める。
(小学生の頃の夢はミュージシャン)
教室はマンツーマン制で、先生はレコーディングプロの方だった。
何故か先生に気に入られて
「バンドやろう!ボーカルやって!!」
って誘われてバンドで歌うことにw
メンバーは私と、
ギターは2人で、ギター先生とその生徒(大学生)。
ベースもギター先生の生徒。
ドラムは音楽教室のドラムの先生。
ギター先生は本気でプロデビューを目指していて私を誘ったのだが、、なんというか、、う〜ん、、複雑だよね、、w
曲はオリジナルを作った。
作曲 ギター先生
作詞 私(笑)
内容はとても公開できないが、
実はこっそり作詞したり詩を書いていたこともある(爆死w)
2曲レコーディングもした。
後になって聴くと恥ずかしくて笑ってしまう仕上がりだww
ハッハッハ〜ァwwww
あ、当然だけどギターとドラムは流石に上手かったです。
私のギターは「下手でもいいからオープンコードで弾け」と、私のギターがオープンコード仕様になり果てて、、上達せずw
その後、ギター先生の独裁ぶりが発揮されてサイドギターの大学生はボロクソ言われて辞めていき、ドラム先生へのハラスメントも酷いもんでした。
あまりにも酷いので嫌になり、バンドもギター教室もサヨウナラしました。
O先輩の会社を辞めてから運送会社で働いてみるんですが、、これまたすぐに辞めてしまいます。
再々再度、前の親方(以後「社長」)に相談してみたところ会社が大きくなっていた!
当時一緒に働いていた人達は下請け業者になっていた。
そして私も社長に言われるがまま『一人親方』下請け業者になる。
この頃、27歳。
先輩方に指導を頂いて何とか頑張っていました。
技術不足でありながらマンション現場を納めることも出来ました。
車もハイエース新車で買わせて頂きました。
何とか少しは成長出来たように感じていました。
(社長!!有難う御座います!!)
しかし、、声を大にして言います。
私の問題は「酒」!
居酒屋、キャバクラ、スナック、バー、女遊び、、
お酒は本当に便利な合法ドラッグです。
感情を感じたくない時、
感情を爆発させたい時、
現実を見たくない時、
異性と関係を持ちたい時、
そして起きたこと全てを酒のせいにするんです。
SEXも浮気も暴言も暴力も、、
「酔ってたから」
酒のせいにして繰り返すんです。
そんな輩が世の中には五万といます。
私もその1人でした。。
問題は酒の飲み方とその責任の取り方です。
酒は何も悪くありません。
いや、体や精神には悪いんですけどねw
合法なので飲むのは自由です。
私は平日も土日も関係なく、よく朝方まで飲んで二日酔いで仕事に行っていました。
当然まともに仕事が出来るはずもなく、いろんな方に迷惑をかけてました。
当時は今より飲酒運転が厳しくなくて、酒の匂いをプンプンさせてへっちゃらで運転していました。
(最低です。すみません。。)
《片目のおKさん》
ある夏の終わり。
私はいつものようにキャバクラで遊んで、お気に入りのキャバ嬢とアフターでオカマバーで遊んでました。
次の日も仕事なのに帰ったのは朝方。
当たり前のように寝坊して、二日酔いで現場には遅刻して到着。
その日は二日酔いで死にそうになりながら必死に仕事をしていました。
夕方、建物外部の足場上での作業中。
資材をハンマーで叩いた際に接続部のリベットが破損。
叩いた勢いで破片が左目の眼球に直撃!!
当たった瞬間は何が起こったのかわからなかった。
すぐに「あ、コレはヤバイな、、」と理解して、現場監督に連れられて病院に直行した。
現場近くの病院で「ウチでは無理」と大病院を勧められた。
そこから1時間ほどかけて移動する。
最初は「左目が痛い」だけだったのだが、だんだん気分が悪くなり、大病院に着いた時は駐車場で膝から崩れ落ちて動けなくなった。
親切な人達に担がれて救急外来の診察台?に横になって意識が無くなった。
私は全く記憶に無いのだが何度も起きて吐いていたそうだ。
眼圧が高過ぎて脳を圧迫していたそうです。
眼圧を下げる処置をして、入院手続きを済ませ、大部屋に移動させられた。
入院費用や手術費用は労災保険が適応された。
1ヶ月ほど入院していたのだが、、「地獄か!」ってぐらいつまらん入院生活だった。
病棟は3階で、外出禁止。
他の階に移動も禁止。
まぁ守ってないけどw
かなり大きな大学病院だったのでマックやコンビニがあって、よく病棟を抜け出して買いに行っていた。
看護士には「強制退院させるぞ」と脅されましたw
社長や職場の人は何人かお見舞いに来てくれました。
友人も何人か来てくれたかな、、
あんまり覚えていない、、
時々来てくれたのは、よく遊んでいたキャバ嬢やスナックで知り合った女の子、そして当時お気に入りだったキャバクラで知り合ったお姉さんMちゃん。
1番辛かったのは一ヶ月の禁欲生活だったなww
入院していた病院はかなり大きくて有名な病院だった。
眼科の権威が在籍していて有名だったみたい。
左目は水晶体が破裂していたらしく、水晶体の摘出手術をしました。手術はその医師が執刀したのだと思う。
眼の手術は局所麻酔で行うらしく、意識がハッキリした状態でメスを入れた。
ボンヤリ影が見える状態でメスで「ブチブチブチ」って音を聞きながら。
医師は「動くな!」と怒りながら執刀。
動くわw
お前も切られてみろw
手術はすぐに終わりました。
28歳。
片目のおKの誕生です♬
その後、傷が塞がって晴れて退院します。
(重要!!)
左目は瞳孔が全開になった状態で目蓋を閉じていても少し眩しい。
視力は殆ど無く、見える景色は白濁した水の中に沈んでいる感じ。
暗がりでは真っ暗闇。
挙句の果てには斜視状態。
今も覆っているのが最も楽です。
私が片目になってしまったのは因果が巡ってきたと思っています。
当時も何となくそう感じていたんだと思います。
退院直後。
定期検診も面倒臭くて行かなくなりました。
人工の水晶体などもあったそうで、保健が効くのに勿体無いとかいろいろ言われましたが、今となっては人工物を体に入れなくて正解だったと思っています。
退院してから二ヶ月位は安静にしていました。
あ、安静にはしていませんw
労災保険の月々の支給で何とか生活は出来ましたが、かなり金額も少なくて遊ぶ金は無かった。
知り合いに紹介して貰った近所のスナックで安く飲ませて貰ってました。
ママにとても良くして貰い、その後バイトすることになりました。
ママには水商売の作法や接客などを教えられ、いろいろな店に勉強がてら遊びに連れて行って貰いました。
「飲み屋でもやるかなぁ、、」
己や現実に目を向けず酒に溺れていた私は、更に深みにはまっていくことになりました。
地元の雑居(スナック)ビルの一階に空きがあるのを発見して、すぐに空き店舗を抑えました。
資金は労災保険を右から左へww
私がやろうとしていたのは、当時はまだ地元には無いスタイルで、早い時間はスナック、深夜はメンパブの2部制の店でした。
女性スタッフは、お見舞いに来てくれていた憧れのお姉さんMちゃん♡がキャバクラの友達と一緒にメインで働いてくれることになり、週末の知人のバイトも含めてなかなか豪華なメンバーになりました。
(たぶん可愛い子が働いていると話題になったと思うw)
男性スタッフは、中学のお笑い同級生BDが店長として働いてくれました。
週末は可愛いイケメンの大学生がバイトに入ってくれることに。
店の準備は友人に手伝ってもらい、挨拶回りはママに手伝ってもらって何とかオープン出来ることに。
シロウト飲兵衛の一念発起w
いや、ただの思い付きですww
退院から半年ほど後の春でした。
オープン前後。なぜかBDが写っていない、、
オープンイベントは、地元だからってのもあったけど、ママの同業者への宣伝がかなり助けになり、なかなか忙しかったと思います。
ママには本当に感謝しています♡
(元気ですか?ご自愛下さいねっ!!)
この頃にとても仲良くなったヒゲのOM。(写真右側)
面白くておバカな1つ歳上の友達。
よく遊びに来てくれて店も手伝ってくれました。
*重要人物です。
それから私の29歳の誕生日イベントが終わるくらいまでは特に大きな問題も無く(私が頻繁に酔い潰れるくらいでw)、暇な日もあれば忙しい日もありで悪戦苦闘の始まりです。
そんなこんなで
私の新たな地獄への幕開けとなりましたww
フラフラした本当に酷い20代でした。
自慢できることなんて何も無かったです。
強がって自信のあるフリをしていました。
当時はこの「一国一城の主」が少しは自信になっていったのかもしれません。
カスみたいなプライドとこの自信が後に間違った方向に進んでしまいます。
改めて強めに言わせて頂きますが、
酒は合法のドラッグです。
「酒に酔う」ってのはドラッグの「トリップ」と同じです。
酒は百害はあっても一利もありません。
「酒は百薬の長」は詭弁です。
私は完全に断ちました。
4年半になります。
もし飲まれるなら悪いとわかっていて嗜好品として意識の変わらない程度に軽く嗜むのをオススメします。
今日はここまでにしておきます。
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中年期①
有り難う御座いました(^ ^)