愛と真理の探求者 おけい

愛と真理の探究記録

青春時代① 16歳 高校〜オーストラリア

こんにちは~♬

 

過去を振り返り、その時に感じてあげられなかった自分の気持ちを感じてあげるコトって、やっぱり大切だなぁ〜と改めて感じています(^ ^)

 

そーいえば全然書いてないけど、

私は女の子に全然モテなかったわけじゃないですよ〜w

中学の頃は恋くらいはしていました。

今思えば何であの子を好きだったのかは謎なのですが、、w

「付き合うってどーゆーこと?」って感じのお子様だったのでよくわからなかったアハハ〜w

 

その後、3年の時にクラスの隣の席にKちゃんて女の子がいたのですが、YTグループの1人に片想いしていて、恋愛相談を受けてましたw

卒業してからなぜか少し付き合いました。

が、すぐに別れてしまった。

ブルーハーツが好きな、とっても純粋で素敵な女の子でした。

 

 生立ち① 幼少期〜少年期

 生立ち② 転校〜小学校卒業 

生立ち③ 中学生

 

さてさて、

私は無事に義務教育も終わり、

高校生になりました。

入学した学校は私立の男子校で、商業科、普通科、特進?ってのに分かれてました。

私が推薦で入ったのは普通科です。

自宅からは自転車で20〜30分位だったかな?

同じ中学校からは特に仲の良い友達も来ていなくて、話す相手も居ないまま、入学式、始業式を無事に済ませました。

同級生には何やらイキがってる奴、休憩時間にバタフライナイフで遊んでいる奴がいて、

「アホばっかだな」なんて言ってました。

3日目で「明日は頭髪検査があります」と言われ翌日から1週間学校に行きませんでした。

私は髪が長めで、オールバックで登校していて、切りたくなかったのです。

同じころ、他の高校(行きたかった高校)に入学したYTから、

「始業式の帰りにタバコ吸ってたら停学になった。もぅ辞めたい。」と電話があり、YTと少し夜遊びをしていました。

(親父が怖いから少しね)

 

1週間後、「もう大丈夫だろ?」と登校した時に頭髪検査を受け、「切ってこい」と言われたので、翌日から行かなくなりました。

またまた大人になって振り返って気づいたコトなんですが、この時、頭髪検査と「アホしかいない」を言い訳にしていますが、ただただ怖くて悲しかったんだと思います。

 

「また居場所を作らなきゃ」

「弱いと居場所がなくなる」

「舐められると居場所がなくなる」

「また暴れなければ」

「また人を傷つけなければ」

「怖い、、悲しい、、」

 

こんな感じだったんだと思います。

 

入学早々、学校に行かないなんて親が許すわけもなく、半家出状態になりました。

中学のオタ友の家とそのオタ兄友人の家に夜中や朝方まで居座って、家には寝に帰る日々を1ヶ月近く続けます。

その間に制服を捨てたり、公園で教科書を燃やしたり、退学する為の準備を進めます。

ある日、親に「学校を辞める」と伝えると家族会議的なことになりました。

あーだこーだ親に説得され、挙句には兄貴に殴られます。(後で聞いたら兄は高校の時に大学の入学資金をバイトで貯めていたらしく、怒る気持ちはわかりました。)

その後、退学の旨を学校に伝えに行った時は担任に熱く説得されますが、聞く耳を持ちませんでした。

結局、大人は高校を辞めたい奴の気持ちなんて理解しようとしない。わからない。

誰も私の気持ちなんて理解していない。

高校は自主退学しました。(登校4日w)

 

高校を辞めてからは、、

あまり覚えていませんが、

フラフラしていたんだと思います。

昼まで寝て、学校が終わる夕方に出て行って、中学の同級生(YTと愉快な仲間たち)と夜中まで遊んで、朝方まで起きていて寝る。

たぶん、そんな生活。

 

そんな私が一番好きだった時間。

夜な夜な、コンビニで段ボールを貰ってきて、川の堤防に敷いて、タバコと缶コーヒーを片手に同級生数人と星を見上げながら好きな音楽の話や夢や妄想を語り合う。

何よりも楽しい時間だったと思います。

 

この頃、家では両親が別居する話になっていました。(やっとかよw)

過去に何度も家族で話してきているのですが、(どーゆー経緯だったか覚えていませんがw)本格的に別居に向けて動き始めます。

 

6月、16歳になった私に母親から提案がありました。

これはあまり人に話していませんが、、

オーストラリアへの留学です。

 

親父の妹(叔母)がオーストラリア人男性(叔父ブレア)と結婚していて、アデレード近郊に住んでいました。

母親の提案は、

アデレードでホームステイしながら、イングリッシュカレッジで英語を勉強、

まぁ社会勉強ですね。

 

私はなぜか行くことにしました。

、、なぜ??

まったく覚えていませんw

おそらく

「そんな俺はカッコイイ!」

「家族から解放される!」

って理由も少なからずあったかもしれませんw

そして、、なぜか怖くなかった。

、、なぜ??

 

そんなこんなで渡豪します。

確かニュージーランドを経由してシドニー(メルボルンだったかな?)に到着。

7月の南オーストラリアは雪が降っておりました。オーストラリアは暑いイメージだったのでビックリでしたw

 

【イングリッシュカレッジ】

English College of Adelaide (ECA)

昼間は英語学校で、色々な国の人たちが英語を勉強しにきていました。

アデレード兵庫県姫路市姉妹都市で、日本人が多かったです。

夕方からはオーストラリア人向けの日本語学校でした。

検索したら今でも在るみたい♡

↓こちらです♬

https://www.wavenetwork.com.au/ryugaku/cost.html

 

アデレードに着いて、ECA入学手続きをしている時に驚愕の真実に気づきます。

英語がまったく話せないw

単語すらわからないw

 ECA職員もビックリww

中学の成績はなぜか2(5段階評価)でしたが、「え、1でしょ?もう1でいいじゃん!!」ってレベルです♬

なぜこの力量で渡豪したのかも謎ですw

クラスは英語のレベルによって4つのクラスに分けられていたのですが、当然初級クラスでしたよwアハハー(*≧艸≦)

初級クラスは一番人数が少なかったと思います。

私を含めて日本人男性3人とイタリア人のお姉さまカティア(美人だったと思う)と香港人男性のパト。

パトは私のすぐ後に入ってきた同世代。

たぶん問題児だったんだと思います。気さくないい奴でした。軟派野郎だったけどw

香港が中国に返還される直前だったので、少し裕福な家庭なんだろう、その後も5、6人の香港人が入ってきた。

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香港グループ。

右端がパト。

面白い奴らだったと思うw

 

【ホームステイ】

ホームステイ先は白人の初老夫婦&2人のアジア系養女(小学校低学年くらい?)の家でした。

とても温かい、良い人たちだったのですが、、

ここで問題が起きます。。

私は「温かい家庭」を知りません。

可愛い子供たちも、接し方がわかりません。

コレがかなり苦痛だったんです。

そして最低の選択をします。

「食事が合わない」とか何とか言って、ホームステイ先を変えて貰ったんです。本当に最低。

いつかアデレードを訪れたら謝りに行こうと思っているのですが、、実現はされてません。

 

新しいホームステイ先は、スチュワーデス(今で言うCA)の女性の家でした。

彼女は自宅にあまり帰って来ず、彼氏との結婚資金を貯める為にホスト(ホームステイ先)をやっていると言っていました。

一人暮らしみたいなホームステイですw

とても楽しかった(^ ^)

 

【叔父と叔母】

週末はよく叔母の家に行っていました。

アデレード近郊」と言っても、バスで2時間以上かかっていたと思います。

叔母の家は東京ドーム(甲子園だったかな?)5個分の庭に、小さなレンガ造りの平屋建てに夫婦2人と猫2匹で住んでいました。

(猫の名前、1匹は忘れましたが、1匹はエイリアンって名前でしたw)

庭には小川が流れていて、鳴き声が特徴的なクッカバラ(笑い鳥)が鳴いていたw

https://youtu.be/6t4r_uprXuU

 

叔父ブレアは大きなワイナリーで働いていて、テイスティングの仕事してました。

個人でもワイナリーを持っていて、世界100本に選ばれたこともある凄腕。

よく海外のワイナリーからヘッドハンティングされていたみたい。カックイイ♬

叔母は通訳や翻訳の仕事をしていました。

叔父さんは「働かざる者、食うべからず」と、滞在中は色々な作業をしていました。

洗車、芝刈り、薪割り、etc、、

とても良い経験になりました(^ ^)

激ウマのワインは飲み放題でした♡

叔父さん叔母さん宅↓

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芝刈り機と私w


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庭と芝刈り機と私w

向こう側に小川が流れている。

 

 

カレッジに通っている期間、私は特に誰と仲良くなることもなく、

ウォークマンと辞書が友達でした。

自分のコトを伝えられないのが悔しくて、毎日辞書を引いていました。

 

せっかくオーストラリアに行ったのに観光もしなかった。

まぁ16歳が1人で海外を観光なんてちょっと怖いよね。

一度だけカレッジの仲間と川か何処かに遊びに行った気がするけど、、あまり覚えていませんw

 

カレッジには4ヶ月くらい通って、クラスが1つ上がってから修了しました。

1人で観光とかできる程度には話せるようになっていたと思います。

(25年経った今、、全く話せませんw)

延長して留まるかも考えましたが、日本が恋しくてやめました。

 

カレッジに居た様々な国の人たち、、

今更ですがとても会いたいです。スタッフも。日本人も。。本当に今更です。。

友達の作り方がわからなかったんですよね。

人と繋がるってわからなかった。

叔父さんや叔母さんとも。。

人との繋がりについては大人になっても続きます。悩みます。

 

今となっては全てが今の私を作るための必然だったのだと思えます。

が、もっと違った人生もあったのだろうとも思えます。

なかなか悲しいですw

 

ECAが終わってからも叔父さん宅で少しお世話になってから、日本に帰りました。

日本に帰ると色々と環境に変化がありました。

こっからが本当の苦行の始まりですw

 

長くなってしまいましたが、

私にとってはとても貴重な数ヶ月でした。

 

当時はなんとも思っていなかったのですが、、

今となっては親父には伝えられないけど、

本当に親には感謝しなきゃですね!!

 

 

ではまた〜w