愛と真理の探求者

愛と真理の探究記録

【元クソ野郎は決意新たに 】

明けましておめでとう御座います。

今年も宜しくお願い致します。

さんで御座います

 

今回は私が

『なぜ今の生き方に至ったか』

について簡単に書きたいと思います。

ブログに書いている「生い立ちシリーズ」も繋がっているので読んで頂けると嬉しいです。            

生立ち① 幼少期〜少年期

まだ途中ですけどw

ついでに今後の目標も書いておこう!

 

私はクソ野郎でした。

(初っ端から汚い言葉で申し訳ない)

人に迷惑をかけ、嫌な思いをさせ、嘘を吐き、時には暴力に訴えて育ちました。

若い頃はドラッグに逃げ、数年前まではアルコールで自分と現実から逃げていました。

女性を裏切ることも沢山ありました。

酔って暴れることも度々ありました。

酔って女性に手を上げたこともあります。

チンピラクソ野郎です。

 

私は、

常に自分を正当化し、

功名心や目先の欲に囚われ、

全てを蔑ろにして生きてきました。

自分さえも。

 

そんな私が変わるキッカケをくれた3つの出来事があります。

 

1つは

大好き(愛とは言いません)だった女性と2人の可愛い女の子との別れです。

2人の子を持つシングルマザーの方と結婚したのですが、、失敗しました。

3人にはとても悲しい想いをさせたと思います。

理由は簡単には説明出来ませんが、

概ね私の問題だったと思っています。

 

2つ目は

離婚した後、私は『幸せになりたい』と強く思いました。

私は以前に「心理学」をベースにしたヒューマンセミナーで(中途半端に)学んだことがありました。

そこに戻って「問題だらけの自分と徹底的に向き合う」ってことが出来ました。

(セミナーって聞くと胡散臭く聞こえるかもしれませんが、最近の私をよく知っている人はこの体験の意味をわかってくれると思います。旧友や旧知からは「宗教」や「マルチ」と疑われたこともあります。キズつきましたが、過去の自分から考えれば仕方ないですよねw

ちなみに受講料以外にお金は払わないし、何も買わされません。壺も買ってませんww)

 

徹底的に自分と向き合った結果、、

今でも向き合い続けていますがw

『本質に添って真っ直ぐに生きたい』

と思えるようになりました。

 

3つ目は

そのセミナーで、ある女性と知り合いました。

曲がったことが嫌い、真っ直ぐで困っている人には手を差し伸べ、人が幸せになることを自分の事のように喜ぶ本当に素晴らしい女性です。

私は

『あぁ、、この人となら私も真っ直ぐ生きられるかもしれない。。』

と感じて、お付き合いすることになりました。

 

以上が「キッカケをくれた3つの出来事」です。

 

 

 

私は彼女と真っ直ぐ向き合うために酒をやめました。

酒をやめて4年半位だと思います。

数年前までは浴びる様に飲んでいた酒ですが、一滴も飲んでいません。

お陰で自分とも現実とも向き合えています。

余談ですが、、

酒をやめると人生は好転しますよ♬

絶対に!!

今では娘も生まれて幸せです♡

 

しがらみを一掃。

地元や旧知への執着を捨てて地元を出ました。

 

以前から疑問に思っていた、社会、世界、世の中の仕組みについて学び、見識を深めました。

 

最初は元々空手の先輩であるTHINKERのサイトと著書『マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』です。

当然、本人にも話は伺ってきました。

 

サイト

http://www.thinker-japan.com/

 

 THINKER著書

 

そして大きな影響を受けたのが、日本で最も有名な医師 内海聡 です。

キ◯ガイ医『内海聡

通称『うつみん』

彼は医者でありながら「医学不要論」を提唱しています。

真っ直ぐに真実を伝えてくる彼の言葉は嘘がないように思いました。(当時は)

全国に多くのファンとアンチがいます。

私は以前からFBで記事を読んでいました。

当初は「何か凄い人だなぁ」と思っていた程度です。

内海聡の本で最初に買ったのはコチラ。

99%の人が知らないこの世界の秘密 <彼ら>にだまされるな!

99%の人が知らないこの世界の秘密 <彼ら>にだまされるな!

 

この本を皮切りに内海聡の著書を読み漁りました。

まだ腑に落ちないところもあるし読み切れてもいませんが、納得させられることは多いです。

(尊敬はしていますが、うつみん信者ではありません。)

 

 

自然の摂理を知り農を学んでいます。

有機農業や自然農を学びました。

(一時は農家になろうとも思いましたが方向転換しました。農は続けるつもりです。)

食の大切さや環境保護の重要性を改めて実感しています。

 

種々な学びを進め、世界を知り、人間を知り、点と点が繋がっていきました。

資本主義、政治、原発、歴史、医療、教育、食、、etc

全ての疑問が繋がります。

全ての闇が繋がっています。

 

私はこの狂った社会が嫌いです。

歪んでしまった世界が嫌いです。

それは人間がもたらした現実です。

私はこんな世界にした人間が好きにはなれません。

でも完全に嫌いにもなれません。

なぜなら子ども達に罪は無いから。

そして、そんな子ども達を守る為に戦っている人がいるから。

 

私にはやりたいことがあります。

 

子ども達に寄り添い、

子ども達の居場所を作る。

子ども達が安心して食べられる物を作る。

子ども達が正しく学ぶ環境を作る。

 

その為には大人達も変わっていかなきゃなと思います。

大人達は自分が苦しんでいることにすら気づいていませんし認めません。

それが次世代を苦しめている原因でもあります。

そんな大人達がお互いを助け合い、守り合う社会を作りたい。

 

【第一歩を私から】

第一歩を踏み出す人が少しでも増えたら世界に少しでも影響を与えていきます。

波紋のように。

『愛の波紋疾走(オーバードライブ)』

なんて言っていた時期もありますww

 

「何言ってやがるんだクソ野郎のくせに」と思う人もいると思います。

はい。確かに私はクソ野郎でした。

クソ野郎も世の中の為に何かしたいんです。

 

私は過去のことで、

謝罪できる人には伝えてきました。

会ったり、電話したり、メールしたり、

今のところ全ては無理ですが、出来ることはやっています。

今後再会する人がいれば伝えると思います。

 

私は子ども達と関わっていく上で恥ずかしい背中は見せたくありません。

堂々と胸を張って生きている姿を見て欲しいです。

この想いは我が子が生まれて更に強まりました。

どこかに過去に対する贖罪の想いがあるかもしれません。

あって然るべきだとも思います。

だからこそ中途半端はダメなんです。

過去に迷惑をかけてしまった人達への償いは、次世代に必ず返していきます。

 

 

思った以上に長くなってしまいました。

書き足りないんですけどねww

まぁこの辺で、、

 

【目標!!】

フリースクールを立ち上げる!

少し前から言っていますが、問題がてんこ盛り!

でもやりたい!!

活動を広げて、仲間を増やして、実現したいと思っています♡

目下の目標は「建設業に頼らなくても稼ぐ力をつけること」です。

建設業界も闇だらけなのですよねw

 

やりたい事は沢山あるのだけど、

もう1つやりたい事を書いてみます。

 

『母子シェルター』

私はDVの家で育ちました。

母親を守れませんでした。

そして私もDVをしたことがあります。

守らなきゃいけない人を傷つけてしまいました。

「苦しんでいる母子は守らなければ」

ここにも贖罪の気持ちがあると感じています。

そんな私だから、、出来ることがあるはずだと思っています。

 

 

このブログも他のSNSも、

必要とする誰かの目に留まってくれたらと思っています。

そして力になれたらと思っています。

 

できれば皆さんの力を貸して下さい。

 

元々は根暗なコミュ障ですがww

まぁそれなりに面白い奴なので応援してやって下さい。

 

愚直で結構!

真っ直ぐいくぜ!!

 

さんでした!!

 

有難うございましたヽ(´∇`ヽ)

 

 

クリスマスって何なの?

 

こんにちは(^^)

片目のおさんです♬

世間ではめりーくりすます♬  ですね(^ ^)

 

折角なので今日はクリスマスについて少し書きたいと思います。

 

そもそもクリスマスとは何ぞや?

 

一般的にはクリスマスってのはクリスチャン、キリスト教のイベントですよね。

イエス・キリストの誕生日とか言われています。

でも変ですよね?

聖書にはクリスマスの記述は無いのです。

(私はクリスチャンじゃないし聖書に興味も無いので調べた結果です。)

 

なんで日本でクリスマスを祝うのでしょうか?

企業戦略?

それもあるでしょう。

その点はバレンタインデイやホワイトデイ、父の日や母の日も同じでしょう。

その西洋の文化を日本に持ってきたのはわかります。

しかし、サンタクロースがプレゼントを持ってくるだとか恋人たちの聖なる夜だとか意味がまったくわかりません。

そもそも近代の西洋ではキリスト教の家庭がイエス・キリストの誕生日を家族でお祝いする習わしだったと思われます。

 

イエス・キリストはまだもう少し暖かい季節に産まれたと言われています。

羊飼いが羊たちと野外で眠れるくらい暖かい季節です。

12月は凍死ですわなww

 

じゃあ、、

12月25日は何の日なのか?

 

簡単に書きますね。

 

この日はノアの曾孫「ニムロデ(ニムロド)」の誕生日だそうです。

ノアってのはノアの方舟のノアね。

 

ニムロデサタンの支配下で、

古代バビロンの支配者だったそうです。

バベルの塔を建造した人間。

エホバの神に初めて敵対し、背教を起こした人間だそうです。

キリスト教からすると異教徒、ってか自らを神と称した悪魔崇拝者。

ちなみにニムロデは実の母親セミラミスと結婚した近親相姦野郎です。

 

ニムロデの死後、ニムロデの誕生日である12月25日に母親?妻?のセミラミスがニムロデの霊が宿ったとされる常緑樹に贈り物(御供え)したのがクリスマスの起源だそうな。

 

 

クリスマスって

Xmas

と書かれることがあると思いますが、

この「X」はニムロデの象徴だそうで、魔女の額にもこのマークが印されていたらしい。

 

結局、クリスマスって何なのか?

 

自らを神と称したサタンの支配下「ニムロデ」の誕生日。

悪魔(サタン)崇拝者ニムロデの復活を祝う古代バビロニア悪魔の祭りです。

 

旧約聖書には関係していますが、

キリスト教は関係無しwww!!

ウケるww

 

他にも、

サンタクロースの起源は「子供を拐いにくる悪魔(サタン)」だとか言う説もありますが、まぁそれはよくわかりませんw

サタンX(クロス)なんて言われることもありますね。

 

じゃあ何でキリスト教のイベントになっているのか??

 

それは、

そもそもキリスト教が何なのか?」って闇に触れることになります。

私もそのうち書きたいとは思いますが、、まぁそのうち。

興味があったらいろいろ調べてみて下さい。

調べていくとフリーメイソンとかイルミナティとかも出てくると思いますが、「なんだ陰謀論か」と片付けるのではなく、世界の裏側で何が起こっているのか知るキッカケになれば幸いです♬

 

 

まぁ私は神も信じてないしクリスチャンでもないから、どーでも良い話なんですがねw

ただ、自分の子供が悪魔崇拝のイベント」で盛り上がるのはちょっと嫌ですわw

「え!?私は悪魔のお祝いしてたの!?お父さん知ってたの!?」って言われたくないもんww

 

 

皆さんはクリスマスが何なのか知っても子ども達とお祝いしますか?

私はもう少し子どもが大きくなったら葛藤することでしょうw

周りの子どもと楽しむことは奪いたくないです。

でも真実は伝えたいですよね。

 

我が家では

プレゼントをくれるのはお父さんです!!笑

子どもがクリスマスをどう過ごすかは任せます。

 

我が子は勿論、全ての子ども達に「疾しいこと」「後ろめたいこと」無く、堂々と胸を張って誠実に生きている私の姿を見せたい。

 

私が関わった子ども達が胸を張って誠実に生きて欲しいから。

 

ただそんだけww

 

「知ってしまった」

「気づいてしまった」

選択は変えていけますね。

 

ついでに余談ですが、

私はスターバックスは利用しません。

ディズニーも行きませんしグッズも買いません。

それは「知ってしまった」から。

コレについては、また別の機会に(^^)

 

嫌な気分にさせちゃいましたか?

別に批判も非難もしません。

私も以前はクリスマスを皆さんと同じように過ごしていました。

スターバックスも買っていましたw

 

何より、

選択は自由ですよね(^ ^)

 

おまけに

コーゾーさんの怪しい動画も張っておきますw

https://youtu.be/3q2F-i5xLpY

数秒なので観て下さいw

 

 

それでは今日はここまで〜

 

 

有難うございました♬

 

 

 

 

 

ブログ名を変えました〜

こんにちは♡

 

1週間前から体調を崩して、くたばっております。

 

今後の活動に向けてハンドルネームを統一しました。

 

特に何が変わるわけでもないのですが、何かのキッカケで活動を知って貰えたらと思います。

 

目下の活動としては、

「フリースクリール」の立ち上げに向けてです。

行き場のない子ども、大人を信じられない子ども達の相談役、親代わり、先生代わりになれたらと思っています。(2023年では停滞中)

 

YouTubeも活用して発信していこうと画策しています。(2023年ではやってないw)

ただ、人前で話すことや晒されることが苦手なのでちょっとずつやっていきます。

(さぁやるぞ!って時に風邪ひいたww)

 

今のところ公開設定していませんが、少し前に練習で撮った動画をここだけに貼りつけておきます。

興味がある人も無い人も良かったら〜

 

https://youtu.be/K3a3rXXACCc

 

かなり話し下手なので笑ってやって下さいw

 

 

最終目標は、

食糧の自給自足、

子育てや介護を老若男女で助け合う

自立型コミュニティーを作ることです

 

私達が次の世代に残せる物は何なのか?

自然と調和し、7代先まで考えて選択していく

「インディアン思想」

で活動していきます。

 

応援宜しくお願い致します!!

 

 

前回の記事

 青年期① 空手 

青年期① 空手

 

はろーえぶりばでー。

私の過去のクズっぷりが上手く表現が出来てないなぁ、、文才も無いし、、

と、少し落ち込んだのは一瞬ですがw

前向きに楽しんで書いてます♡

 

どーも!!

「隻眼の堕天使」←(定着させようとしてるw)

おKさんです♡   ←(これもww)

 

生立ちから

生立ち① 幼少期〜少年期

前回

青春時代② 17〜20歳

 

 

ではでは続きを失礼します。

今回は空手のお話し。

 

入門した空手道場は極真空手の枝の枝。

個人がやってる実戦空手の小さな道場。

今は知らないが、当時空手は大きく2つに分かれていて、型の美しさやポイント制の試合をする伝統派空手と、殴り合いで試合する「実戦空手」に分かれていた。

当時は「正道会館」のK-1GPが流行り出した頃で、グローブを着けてキックボクシングみたいな空手も増えていた。

 

空手はとても楽しかった。

いや、苦しかったw

 

超スパルタの道場だったw

小さな道場だったが、私は「筋が良い」と可愛がられた。

頑張ったことがない私の人生で、これほど打ち込んだものは無い。

空手は私の人生で最も夢中になった数年だった。

空手を始めたきっかけは、

十数人に囲まれた時にハッタリで切り抜けたこと。

 

その時に強く思ったのが

「最強になって全てをねじ伏せる力が欲しい」

とか

「喧嘩で10人倒せるくらい強くなりたい!」

とか、、かな??

なんて動機だww

 

黒髪短髪にして入門、根が真面目で運動神経が良かったので飲み込みも早かったと思う。

まともに部活動をやったことすら無い私が、自主的にジム(道場に併設)に通ったり、走り込みをしたり、今思えば夢中で強くなろうとしていた。

始めた動機は不純だったが、途中から「選手になる」とか「道場を開く」なんて未来も描いていた。

 

最終成績は代々木体育館で行われた小さな大会で、新人戦に出場して優勝

本当に小さな大会だったし、あまり人に話していない。

 

ある程度強くなったころ、極真空手の道場に出稽古に行かせて貰っていた。

出稽古先で同じ歳ごろのTくんに出会う。

Tくんは空手を始めたのも同じ時期で、

「コイツには負けたくない!」と思っていた。

が、、

Tくんは高校の3年間をレスリングに打ち込んでいた強者、、かたや悪ぶって努力なんて何もしてこなかった私。。

 

スパーリングをする度に凹んだ。

 

基礎体力も違えば体重も20kgは差があった。

 

勝てる気がしなかった。。

 

まぁこれは言い訳でしかないんだけどね。

後々、空手に行かなくなった理由は彼のせいにしていた。

 

私は喘息を抱えて空手を始め、空手のお陰(有酸素運動と十分な食事)で喘息は治まっていた。

が、やはり人よりも呼吸器が弱いのは感じていた。

有酸素運動が本当に苦しい。今でも。

結局、私がぶち当たった壁は自分の体であり肺の弱さだ。その壁を強固にしたのは私。

(例えるなら 漫画「日の丸相撲」の「辻桐仁 ツジキリヒト」がとても共感する)

そして過去にタバコやシンナー、ドラッグで揺るぎない弱点へと自ら導いた。

今でも少し走ると呼吸が出来なくなる。

 

私は自分で言うのも何だが、呼吸器の弱点を除けばアスリートとしての才能があったと思っている。

小、中学の頃は陸上部より足は早かったし、高く跳んでいた。球技も習ってないなりに人並み以上に上手くやれた。

私が体が弱いのは仕方ない。

そんな環境で生まれて、そんな環境で育ったのだから。。

 

そして後悔している。

悲しいし悔しい。

 

もし私が道を外さずにスポーツに打ち込んでいたら?

 

道を外したとしても、タバコやシンナー、ドラッグに手を出さなかったら?

 

自分の体を気遣って最善を尽くしていたら?

 

こんなこと言っても何の意味もないのだけれどね、、

 

後悔は今の自分を奮い立たせる力になる。

 

空手に打ち込んでいた頃はスポーツジムでトレーナーやったりしてたけど、まったく金にならんので、知り合いが働くスーパーでバイトを始める。

いろいろと完全ブラックなスーパーだったけど、これは書かないことにしますw

 

「仕事が忙しい」を言い訳にして空手に行く頻度も減っていきました。

そして少しずつ酒に溺れて空手にはほとんど行かなくなるのでした。

 

私は若かりし頃、自らの可能性を潰してきました。

そしてそれは、酒に溺れた青年期も続いていきます。

 

私は自分にも人にも全てに無責任に生きていました。

 

子ども達、若者達に同じ想いをして欲しくない。

 

自らの「可能性」を潰してしまわないで欲しいです。

 

そんなことを訴えて生きていこうとしています。

 

 

空手はその後も少し続けました。

正道会館の基礎も少し習いました。

 

やはり武道は良いですよー!!

私の心の奥の歪んだ物の一部は、空手が正してくれたかもしれません

 

今後、空手も少し自分発信していけたらと思います。

 

最後に、

今は亡き我が師匠に感謝します。

本当に有難う御座いました。

青春時代② 17〜20歳

お久しぶりのこんにちは(^^)/

「隻眼の堕天使」

 おさんですよ〜(厨二病w)

 

 

無事にオーストラリアから帰って来ました。

税関で荷物を検査され、マルボロの喫いかけ1箱(当時は機内で吸えた)と1カートンを見つけた職員に疑いの目を向けられた16歳ですw

 

生立ち① 幼少期〜少年期

生立ち② 転校〜小学校卒業 

生立ち③ 中学生

青春時代① 16歳 高校〜オーストラリア

 

日本に帰ると、家では別居の話が進んでいました。

弟がまだ中学生なので、学区内で引越し先を見つけて契約してありました。

実際に離婚したのは少し後だったと思いますが、別居は16、17歳の頃だと思います。

 

帰国した私はと言うと、、

フラフラとプー太郎生活ですw

主な遊び仲間はYTと愉快な仲間たち。

彼らが高校から帰ってくる頃を見計らって溜まり場に行く。

夜中まで遊ぶ。

昼まで寝る。

夕方また溜まり場に行く。

夜中まで遊ぶ。

昼まで寝る。。。

、、何やってんだ??

 

契約済みの引越し先マンションの鍵を貰って朝まで寝たりもしてました。

 

流石にヤバイのでバイトを始めました。

溜まり場(ビル)の上にある雑貨屋さんで、「暇なら店番やってよ」と頼まれたから。

でも、

ずっと寝てましたw

レジの横でw

度々お客さんに起こされるww

そして店に置いてある物とか勝手に持って帰ったり、愉快な仲間たちにあげたりしてました。

本当にごめんなさいm(_ _)m

 

バイトはすぐに辞めました。

 

確かこの頃にリーゼントパーマをかけに行ったと思いますw

予想以上にゴッツイことになり、恥ずかしくて帽子を被っていましたww

 

原付の免許を取りに行きました。

スクーターは先輩から4、5万で購入。

愉快な仲間たちも免許を取得して夜な夜な走ってました。

単車を盗んだり、暴走族と一緒に走ったり。

迷惑をかけた人たちには申し訳ないんだけど、、

当時は必死で、、、

怖く見せよう、強く見せようと必死だったんです。

 

17歳になった頃には、建築板金、電気工事、引越し屋、メッキ工場なんかでも働いてました。どれもすぐ辞めました。

その後、先輩の勧めで土木関係の会社で働いて、これは少し続きました。

そして400ccのアメリカンバイクを買いました。

無免許ww

その会社で勝手に2tトラックを運転して、ガードレールに擦ったのを黙っていることは、まだ秘密にしておいてくださいww

無免許ww

この頃にドラッグを覚えます。

いろいろやって遊びました。

が、当時はハマらなかった。

 

17歳の冬。

小学、中学とケンカばかりしてきた同級生IHが亡くなってしまいました。

ケンカばかりして、仲直りもしないまま、急に逝ってしまった。

直接伝えたいこと、謝りたいこと、あったんだけどな。。

ごめんね。。

 

 

18歳になる頃、引越し屋のバイトでもしていた頃かな?

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単車で事故を起こしました。

事故する寸前までは鮮明で、気がついたら吹っ飛ばされ道路で倒れてました。

遠くに救急車のサイレンの音が聞こえていて、鼻血がでてて数人に見下ろされていました。

咄嗟に逃げようとした(無免許だからw)けど、救急車に乗せられて病院へ。

意識がハッキリしていたので、処置室で警察に色々と聞かれて、そのまま検査入院。

ヘルメットはかぶっていたので、奇跡的に全身打撲と鼻の骨が折れただけで済みました。

鉄製のナチヘルは変形していて、後で少しゾッとしたのを覚えています。

その日の夜中に病院を抜け出して、叱られて翌日には退院させられたw

後日、家庭裁判所に連れて行かれ、やっと車の免許が取れる18歳になったのに原付の免許は取り消し。2年間は免許が取れないと言われた。

母親に心配と迷惑をかけて、本当に申し訳ないと思っております。。

 

 

 

 

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ウケるでしょ笑

 

親子で型枠大工をやっている友人に誘われて、よくわからんけど働くが、すぐに辞める。

母親が喫茶店を始めます。

頭を丸めて、喫茶店を最初は少し手伝うも、またすぐに辞めてしまう。

確かこの頃「ONE PIECE」が連載し出した。

そして型枠大工でもう一度働き始める。

前とは違う親方にお世話になるのだけど、その親方には今でも大変にお世話になっています。

今の私があるのはこの人のお陰かもしれない!

と、思えるくらいに本当にお世話になりました。そう思えるようになったのは、ずいぶん先の話ですw

 

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かわいいw

 

当時、同級生のYTとはあまり会わなくなっていました。

私は地元が違う友達と遊んでいました。

YTは、怖〜い先輩の付き人(舎弟?)をやっていたのだけど、薬物で捕まって少年院に入ってしまっていた。

一度、売人の所へ付き添ったけど、確かに怖いくらいヤバイ精神状態だった。

 

この頃の私は、何も上手くいかなくて荒れていたんだと思います。

またドラッグをやり始めます。

酷い時は毎週末ドラッグです。

目の下は酷いクマ、ガリガリになって仕事もクビになりかけました。

家でも暴れていて、母親に「出てってくれ」と泣いて頼まれ、出ていくことに。

これを機に生活を改めようと思い、会社の寮に住むことになりました。

寮と言っても主に大学生の下宿先みたいな感じ。親方のご両親が管理。

風呂、トイレ、洗濯機は共同。

部屋はボロボロで虫が出る。怖いw

私は人と馴染めないのですよ涙

同じ会社の同僚が1人住んでましたが、、

彼は馴染みすぎていましたw

私は管理している親方のご両親に、

「受け入れられていない」

「居場所が無い」

と感じていました。そんなことないのに。。。

夕食は出してくれてましたが、私には居心地が悪すぎて、すぐに部屋に戻ってゲームやって寝ていました。

 

耐えられなくなった私はワンルームマンションに引っ越します。

YTが少年院から出てきていて、引っ越しを手伝って貰ったのですが、、様子がおかしい。

「もうドラッグはやらない!」と言っていたので「きっと大丈夫!」とは思いましたが、、

前の状態を知っていたので、YTをほんの少し避けるようになりました。。

 

そんな彼を見ていたにも関わらず、私もドラッグを再びやり始めます。(以前の頻度ではない)

もともと貧乏生活なのに悲惨な生活。。

 

そんな私に転機が訪れます。

この転機をものにするかしないかは、後のお楽しみ♬

臆病者のくせに威勢だけは良い私は、コンビニの駐車場で十数名と揉み合いになります。

この時は超ハッタリで何とか切り抜けました。

ヤバかった、、怖かった、、(´;ω;`)

そして「本当に強くなりたい」と思うようになったんです。

実戦空手の道場に通い始めます。

今でも覚えていますが、稽古初日の帰りは足腰が立たなくなって何度も道で倒れ込んで帰りましたw

「絶対に強くなってやる!」と心に決めて。

 

記憶が曖昧すぎてアレコレ少し順番が違うかも?

確かこの辺で成人式を迎えます。

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母校にてw

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飲み会にて。好きだったハーフ美女と♡

 

その後、実家に引っ越しました。

引越し前は道場まで歩いて30分、実家からは歩いて10分の所にあったから。

一人暮らしの食事はパンとカップ麺とコンビニ弁当という地獄の食生活だったからw

母親に頭を下げて家に帰らせてもらうことにしました。

 

 

追記①

17〜18歳の頃。

怖い怖いビビリの私はいつも「特殊警棒」「ブラスナックル」を持ち歩いていました。

使う度胸も無いのにw

 

追記②

17歳〜円形脱毛がありました。

大きい時は500円玉より大きかったw

こんなに本質から外れて生きていたんだから当然かもしれませんね。

 

追記③

私は弟に理不尽な暴力を振るってきました。

外で会っただけで殴ったり。

でも、ドラッグでガリガリになった頭のイカれた私は、暴走族やってた弟に吹っ飛ばされましたww

きっと私が憎くて仕方なかったんでしょうね。

バカな兄で本当にすみませんでした。。

そんなバカ兄と今でも仲良くしてくれる弟が本当に可愛いです♡

 

 

本当にかっこ悪くて恥ずかしい記憶ばかり。

そして記憶って曖昧ですね。

記憶の順番がバラバラw

全然思い出せないw

思い出すのに一苦労ですね。

 

 

人は本質から離れ、タバコや酒やドラッグの刺激物に頼り自分の気持ちを感じなくする癖をつけてしまうと、軌道修正するのがとても難しいです。

軌道修正するチャンスやキッカケは幾つも目の前に差し出されるのに、掴もうとしません。

怖い、悲しい、苦しい、、嬉しい、悲しい、、怖い、、

そんな気持ちを感じないから、チャンスやキッカケだってことにも気づかない。

この先もコレが長いこと続くんです。

(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル

 

詳細に書くと何倍もの文字数になってしうので簡単に書いてるけど、、

大事なこと抜けてないかなぁ、、

 

 

今後、ゴミみたいな人生を歩む私の軌跡。

まだまだケツの青い20歳までのお話しでした。

ぺこりm(_ _)m

 

青年期① 空手

青春時代① 16歳 高校〜オーストラリア

こんにちは~♬

 

過去を振り返り、その時に感じてあげられなかった自分の気持ちを感じてあげるコトって、やっぱり大切だなぁ〜と改めて感じています(^ ^)

 

そーいえば全然書いてないけど、

私は女の子に全然モテなかったわけじゃないですよ〜w

中学の頃は恋くらいはしていました。

今思えば何であの子を好きだったのかは謎なのですが、、w

「付き合うってどーゆーこと?」って感じのお子様だったのでよくわからなかったアハハ〜w

 

その後、3年の時にクラスの隣の席にKちゃんて女の子がいたのですが、YTグループの1人に片想いしていて、恋愛相談を受けてましたw

卒業してからなぜか少し付き合いました。

が、すぐに別れてしまった。

ブルーハーツが好きな、とっても純粋で素敵な女の子でした。

 

 生立ち① 幼少期〜少年期

 生立ち② 転校〜小学校卒業 

生立ち③ 中学生

 

さてさて、

私は無事に義務教育も終わり、

高校生になりました。

入学した学校は私立の男子校で、商業科、普通科、特進?ってのに分かれてました。

私が推薦で入ったのは普通科です。

自宅からは自転車で20〜30分位だったかな?

同じ中学校からは特に仲の良い友達も来ていなくて、話す相手も居ないまま、入学式、始業式を無事に済ませました。

同級生には何やらイキがってる奴、休憩時間にバタフライナイフで遊んでいる奴がいて、

「アホばっかだな」なんて言ってました。

3日目で「明日は頭髪検査があります」と言われ翌日から1週間学校に行きませんでした。

私は髪が長めで、オールバックで登校していて、切りたくなかったのです。

同じころ、他の高校(行きたかった高校)に入学したYTから、

「始業式の帰りにタバコ吸ってたら停学になった。もぅ辞めたい。」と電話があり、YTと少し夜遊びをしていました。

(親父が怖いから少しね)

 

1週間後、「もう大丈夫だろ?」と登校した時に頭髪検査を受け、「切ってこい」と言われたので、翌日から行かなくなりました。

またまた大人になって振り返って気づいたコトなんですが、この時、頭髪検査と「アホしかいない」を言い訳にしていますが、ただただ怖くて悲しかったんだと思います。

 

「また居場所を作らなきゃ」

「弱いと居場所がなくなる」

「舐められると居場所がなくなる」

「また暴れなければ」

「また人を傷つけなければ」

「怖い、、悲しい、、」

 

こんな感じだったんだと思います。

 

入学早々、学校に行かないなんて親が許すわけもなく、半家出状態になりました。

中学のオタ友の家とそのオタ兄友人の家に夜中や朝方まで居座って、家には寝に帰る日々を1ヶ月近く続けます。

その間に制服を捨てたり、公園で教科書を燃やしたり、退学する為の準備を進めます。

ある日、親に「学校を辞める」と伝えると家族会議的なことになりました。

あーだこーだ親に説得され、挙句には兄貴に殴られます。(後で聞いたら兄は高校の時に大学の入学資金をバイトで貯めていたらしく、怒る気持ちはわかりました。)

その後、退学の旨を学校に伝えに行った時は担任に熱く説得されますが、聞く耳を持ちませんでした。

結局、大人は高校を辞めたい奴の気持ちなんて理解しようとしない。わからない。

誰も私の気持ちなんて理解していない。

高校は自主退学しました。(登校4日w)

 

高校を辞めてからは、、

あまり覚えていませんが、

フラフラしていたんだと思います。

昼まで寝て、学校が終わる夕方に出て行って、中学の同級生(YTと愉快な仲間たち)と夜中まで遊んで、朝方まで起きていて寝る。

たぶん、そんな生活。

 

そんな私が一番好きだった時間。

夜な夜な、コンビニで段ボールを貰ってきて、川の堤防に敷いて、タバコと缶コーヒーを片手に同級生数人と星を見上げながら好きな音楽の話や夢や妄想を語り合う。

何よりも楽しい時間だったと思います。

 

この頃、家では両親が別居する話になっていました。(やっとかよw)

過去に何度も家族で話してきているのですが、(どーゆー経緯だったか覚えていませんがw)本格的に別居に向けて動き始めます。

 

6月、16歳になった私に母親から提案がありました。

これはあまり人に話していませんが、、

オーストラリアへの留学です。

 

親父の妹(叔母)がオーストラリア人男性(叔父ブレア)と結婚していて、アデレード近郊に住んでいました。

母親の提案は、

アデレードでホームステイしながら、イングリッシュカレッジで英語を勉強、

まぁ社会勉強ですね。

 

私はなぜか行くことにしました。

、、なぜ??

まったく覚えていませんw

おそらく

「そんな俺はカッコイイ!」

「家族から解放される!」

って理由も少なからずあったかもしれませんw

そして、、なぜか怖くなかった。

、、なぜ??

 

そんなこんなで渡豪します。

確かニュージーランドを経由してシドニー(メルボルンだったかな?)に到着。

7月の南オーストラリアは雪が降っておりました。オーストラリアは暑いイメージだったのでビックリでしたw

 

【イングリッシュカレッジ】

English College of Adelaide (ECA)

昼間は英語学校で、色々な国の人たちが英語を勉強しにきていました。

アデレード兵庫県姫路市姉妹都市で、日本人が多かったです。

夕方からはオーストラリア人向けの日本語学校でした。

検索したら今でも在るみたい♡

↓こちらです♬

https://www.wavenetwork.com.au/ryugaku/cost.html

 

アデレードに着いて、ECA入学手続きをしている時に驚愕の真実に気づきます。

英語がまったく話せないw

単語すらわからないw

 ECA職員もビックリww

中学の成績はなぜか2(5段階評価)でしたが、「え、1でしょ?もう1でいいじゃん!!」ってレベルです♬

なぜこの力量で渡豪したのかも謎ですw

クラスは英語のレベルによって4つのクラスに分けられていたのですが、当然初級クラスでしたよwアハハー(*≧艸≦)

初級クラスは一番人数が少なかったと思います。

私を含めて日本人男性3人とイタリア人のお姉さまカティア(美人だったと思う)と香港人男性のパト。

パトは私のすぐ後に入ってきた同世代。

たぶん問題児だったんだと思います。気さくないい奴でした。軟派野郎だったけどw

香港が中国に返還される直前だったので、少し裕福な家庭なんだろう、その後も5、6人の香港人が入ってきた。

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香港グループ。

右端がパト。

面白い奴らだったと思うw

 

【ホームステイ】

ホームステイ先は白人の初老夫婦&2人のアジア系養女(小学校低学年くらい?)の家でした。

とても温かい、良い人たちだったのですが、、

ここで問題が起きます。。

私は「温かい家庭」を知りません。

可愛い子供たちも、接し方がわかりません。

コレがかなり苦痛だったんです。

そして最低の選択をします。

「食事が合わない」とか何とか言って、ホームステイ先を変えて貰ったんです。本当に最低。

いつかアデレードを訪れたら謝りに行こうと思っているのですが、、実現はされてません。

 

新しいホームステイ先は、スチュワーデス(今で言うCA)の女性の家でした。

彼女は自宅にあまり帰って来ず、彼氏との結婚資金を貯める為にホスト(ホームステイ先)をやっていると言っていました。

一人暮らしみたいなホームステイですw

とても楽しかった(^ ^)

 

【叔父と叔母】

週末はよく叔母の家に行っていました。

アデレード近郊」と言っても、バスで2時間以上かかっていたと思います。

叔母の家は東京ドーム(甲子園だったかな?)5個分の庭に、小さなレンガ造りの平屋建てに夫婦2人と猫2匹で住んでいました。

(猫の名前、1匹は忘れましたが、1匹はエイリアンって名前でしたw)

庭には小川が流れていて、鳴き声が特徴的なクッカバラ(笑い鳥)が鳴いていたw

https://youtu.be/6t4r_uprXuU

 

叔父ブレアは大きなワイナリーで働いていて、テイスティングの仕事してました。

個人でもワイナリーを持っていて、世界100本に選ばれたこともある凄腕。

よく海外のワイナリーからヘッドハンティングされていたみたい。カックイイ♬

叔母は通訳や翻訳の仕事をしていました。

叔父さんは「働かざる者、食うべからず」と、滞在中は色々な作業をしていました。

洗車、芝刈り、薪割り、etc、、

とても良い経験になりました(^ ^)

激ウマのワインは飲み放題でした♡

叔父さん叔母さん宅↓

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芝刈り機と私w


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庭と芝刈り機と私w

向こう側に小川が流れている。

 

 

カレッジに通っている期間、私は特に誰と仲良くなることもなく、

ウォークマンと辞書が友達でした。

自分のコトを伝えられないのが悔しくて、毎日辞書を引いていました。

 

せっかくオーストラリアに行ったのに観光もしなかった。

まぁ16歳が1人で海外を観光なんてちょっと怖いよね。

一度だけカレッジの仲間と川か何処かに遊びに行った気がするけど、、あまり覚えていませんw

 

カレッジには4ヶ月くらい通って、クラスが1つ上がってから修了しました。

1人で観光とかできる程度には話せるようになっていたと思います。

(25年経った今、、全く話せませんw)

延長して留まるかも考えましたが、日本が恋しくてやめました。

 

カレッジに居た様々な国の人たち、、

今更ですがとても会いたいです。スタッフも。日本人も。。本当に今更です。。

友達の作り方がわからなかったんですよね。

人と繋がるってわからなかった。

叔父さんや叔母さんとも。。

人との繋がりについては大人になっても続きます。悩みます。

 

今となっては全てが今の私を作るための必然だったのだと思えます。

が、もっと違った人生もあったのだろうとも思えます。

なかなか悲しいですw

 

ECAが終わってからも叔父さん宅で少しお世話になってから、日本に帰りました。

日本に帰ると色々と環境に変化がありました。

こっからが本当の苦行の始まりですw

 

長くなってしまいましたが、

私にとってはとても貴重な数ヶ月でした。

 

当時はなんとも思っていなかったのですが、、

今となっては親父には伝えられないけど、

本当に親には感謝しなきゃですね!!

 

 

ではまた〜w

 

生立ち③ 中学生

こんにちは♬

自分の過去を振り返って曝け出すのがチョット楽しくなってきたオジサンですw

 

前回、

「私にとって地獄の始まり」と書きました。

イジメっ子をやっつけて、なぜ地獄なのか?

 

コレは大人になって自分と向き合って気づいたことですが、、、

 

人は心が望まないコトをやり続けると、

自分の心の声がわからなくなります。

怖い、悲しいなど、感情を表現しないと感情がわからなくなってしまいます。

 

あの時、私は

怖かったのに「怖い」と表現せず、

悲しかったのに「悲しい」と表現せず、

寂しかったのに「寂しい」と表現せず、

「舐められたらイジメられる」

「弱いと居場所が無くなる」

ただひたすら「居場所」を守ろうと必死でした。

ソレがどんどん「居場所」を無くしていっていることにも気付かずに。。

 

本当は、

毎日笑っていたかっただけです。

友達と楽しく遊んでいたかっただけです。

親にも先生にも褒めて貰いたかったです。

私は本当に望んでいるモノから遠ざかっていきました。

本当の私は「↑こんな私」を踏まえて読み進めて頂けたら幸いです♬

 

生立ち① 幼少期〜少年期

生立ち② 転校〜小学校卒業

 

さてさて、

続きを書こうと思います(^ ^)

わたしゃ中学生になりました

 

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ボロ家の前で母ちゃんと一緒ですw

この時まだ母親より背が低かったんだな〜、、学帽まで被っちゃって可愛い♡

 

私の中学校は3つの小学校から集まってきます。

学力は名古屋市五本の指に入るほどだったそうな。

学年ごとに8〜9クラスほどあって、

1学年で300人超。

全校生徒で1000人位だと思います。

 

中学に入学した私はまず、

中学怖っ!!

だったのですが、、

、、アレは始業式だったかな??

卒業生の先輩方が遊び?に来ていました。

そして、なぜか3年生を殴っていた。。

え!?中学怖っ!!!

2年生の先輩にも怖い人達が沢山いたので、

様子を伺ってひっそりとしてましたw

案の定、他の小学校から来てるヤンキー原石の数名は先輩方の洗礼を受けており、、

は〜ぁぁあ、、中学怖っ!!!

って、なってましたww

(当時は当然怖いそぶりは見せてませんw)

 

担任は生活指導の体育の先生。

私は「不良になるであろう」と目をつけられていたのでしょうか?と、勝手に思ってます。

先輩は怖いし、知らない同級生も怖いし、、日々強がりながら様子を伺う学園生活w

仲が良かったのは小学校の時に友達になった近所のMっちゃん、オタク友1のSくん、オタク友のTくんかな。

そんな私は不良の友達を作るべく、存在をアピールするべく、各クラスに遊びに廻っておりました。

 

当時、目立ってヤンキーだったのは2人。

(女の子は数名いましたが、ここでは触れません。後で怒られると嫌なのでw)

別の小学校だったY.Tくん。(以後YT)

彼はいつも数名の仲間とつるんでた。(YTと愉快な仲間たち)

それと、

同じ小学校だった医者の息子Hくん。(以後IT)

何故か彼はヤンキーになっていました。

(私のせい?と、思ったこともありますが、真相はわかりません)

中学に入っても私と彼は時々喧嘩してました。

 

私は彼らと遊んだりしてましたが、親父が怖いってのもあり、中学では目立った不良になることはありませんでした。

それでも1年生の春にタバコを自販機で買って(当時は200円)吸い始め、夏には怖い先輩方にシンナーを教えて貰いましたw

 

中学は特にコレと言った事件も無いのですが、強いて言うなら2年生の時に2つ。

1つは全然学校に来なくなっていたヤンキーITの机にイタズラしたら死角からT字ほうきで頭を割られる事件。(完全に私が悪いw)

もう1つは、YTのグループに誘われて駅2つ向こうの学校のヤンキーに会いに行くけど会えず。(何しに行ったのかは謎w)

その後、何故か主謀者は私になっており、そのヤンキーに文句を言われる謎w

(たぶん全員ビビッて私に押し付けたのでしょうね。そんなもんですバカなガキの集まりはw)

 

2年生まで不良に憧れてましたが、特にヤンキーになることもなく一旦終わりを告げる。

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たぶん2年の冬ごろ。

いたって普通ですw

 

当時を振り返って、

「ヤンキーが怖かったからか?」とも考えたけどたぶん違う。

(確かにヤンキーの先輩とか他の学校のヤンキーとか怖かったけどねw)

別に望んで無かったんでしょうね。

何となく、この時はまだ心地良い居場所があったのかもしれません。

 

学年ごとに友達も少しずつ変わってしまい、オタク友とも少し疎遠に。

3年生の頃はクラスメイトと音楽の話なんかしていたと思います。

流行りの曲?や

THE BLUE HEATSとかも聴いてたけど、

主に聴いていたのは

尾崎豊

浜田省吾

今思うと謎すぎるw

百歩譲って尾崎豊はいいとして、

中学生でハマショーって、、w

そして3年生の卒業前に

THE BLANKEY JET CITY

を友達に勧められて聴き始めます。

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このジャケットカックイイ♡

RockとPunkに生きるキッカケはココからスタートしました♬

 

あ、そうそう!

我が家は親戚付き合いが無くお年玉もさっぱりでした。

(小学生の頃は正月の麻雀で親父に貰ったお年玉を親父に巻き上げられるw)

中学生の時は親からの小遣いが少な過ぎてバイトしてました。(たぶん2年の頃)

新聞配達!!

学校が終わってから夕刊のみだったけど、結構な広範囲だったから月5〜6万くらいあったかな??

今でも交流のある友人が手伝ってくれることもありました。本当に気のいい奴等です♡

バイト代はCD代とクラスメイトとのカラオケに消えましたw

楽しかったし良い経験が出来たと思っています。

あと、これ大事!!

新聞配達って数日〜1週間で引継ぎをして配る家を覚えるんですよね。

引継ぎをしてくれた前の担当者が、とっても優しくて良い人でした。

彼は当時は大学生だったと思います。よく缶コーヒーを奢ってくれたのを覚えています。

朧げにしか覚えていませんが、

時々思い出す彼の優しさは、今の私に影響を与えていると思っています。

 

高校受験は大失敗しましたw

通知表がオール1でも行ける公立高校があって(私はオール1ではないw)、YTと愉快な仲間達も行くし、いつ退学してもいいようにその公立高校で考えていました。

しかし!!

「そこだけは止めて!」

と母親に懇願され私立高校を勧められました。

何故か私立高校の普通科の推薦が取れたので推薦で私立高校に行くことになってしまう。。

止めときゃ良かったのに。。

流されてしまった私の大失敗です。。

詳細は次回w

 

ビビリの癖にイキってケンカしたり、イジメしたり、中途半端な中学時代。

嫌な想いをした同級生は沢山いると思います。

この頃に迷惑をかけた人達も本当に申し訳ありません。

(大人になってからですが、同窓会などで謝罪できる人には謝罪しました。まだ会って謝りたい人は沢山います)

恋ぐらいはしていましたが、ウブでシャイな童貞野郎は恋人とか出来ませんでしたw

 

あ、もう1つ思い出。

私は体育が得意でした。(水泳以外w)

走るのも跳ぶのも学年でも上位だったはず。

球技も部活とかやってない割に上手い方だったと思います。

でも、何故か長距離走が苦手でした。

少し走ると「ゼーゼー」「ヒューヒュー」呼吸が出来なくなるからです。

私は「そーゆーものだ」と思っていたし、

「体力が無いだけ」なんだと思っていました。

そんな私は中三の時に体調を崩して病院に行った時、病院で倒れました。

調べた結果、

「喘息です」

と告げられました。

私、喘息を患っていたんですねw

そりゃ長時間の運動なんて出来んわw

症状を誰にも言えなかった私も問題ですが、

誰にも気づいて貰えなかった悲しみ、、、

両親はヘビースモーカー、物心ついた時から家の中はタバコの煙で充満していました。

さらに自身もタバコを吸い始める始末。

まぁそりゃそーなるでしょw

喘息はその頃から一気に悪化していきました。

 

いろいろと小事はハショリましたが、

そんな私も無事に中学を卒業しましたとさ♬

 

また続きはのんびり書きます。

 

それじゃあまたね〜